地籍調査・国土調査の歴史

現在行われている地籍調査は、昭和26年に制定された国土調査法に基づいて行われています。これまで日本で行われてきた地籍調査等の土地の管理に関する制度等の歴史の一部についてまとめています。

班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう) (701年~)

班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

班田収授の法は、大化の改新で定められた「改新の詔(みことのり)」(645年)において導入された、唐(当時の中国)の均田制にならった制度です。(日本書紀より) 701年の大宝律令の制定より、本格的に行われるようになった土地管理制度です。
その内容は、以下の通りです。

  1. 6年ごとに人民の戸籍・計帳(税を徴収するための台帳)をつくりました。
  2. 土地を全て国有とし、田を班(わか)って口分田として人民に分け与えました。(売買は禁止で、本人が死亡すると国に返納されました)
  3. 分け与えられる田の大きさは、6歳以上の男子で2反(約23a)、女子はその2/3です。この班田収授の法で田を分ける時に、「田図(でんず)」という地図が作られました。

太閤検地(たいこうけんち) (1582年~)

太閤検地(たいこうけんち) 戦国時代の武将である豊臣秀吉(とよとみひでよし) (1536~1598年)は、農民の田畑について、一筆(いっぴつ)ごとに広さを測り、土地の石高(こくだか)などを定める「太閤検地」を行いました。これが統一的な方法によって全国規模で行われた日本で最初の土地調査です。それまでの土地管理制度を大きく変えるものとなりました。また、その後の江戸幕府の時代においても、太閤検地と同じ要領で土地の調査が行われていました。

地租改正(ちそかいせい) (1873年(明治6年)~)

地租改正(ちそかいせい)

地租改正とは、明治政府が行った土地制度の改革で、地券(ちけん)を発行して土地の所有者を確定し、これに納税義務を課し、課税の基準を従来の収穫量から地価に改め、物納から金納に移行するというものでした。これにより、土地の私的所有が認められるようになるとともに、土地に対する安定的な税収を確保することができるようになりました。
地租改正においては測量等が行われ、図面が作成されましたが、

  • 短期間で作成されたこと
  • 素人の土地所有者等が測量を行い、官吏(かんり)が検査するという方法を採ったこと
  • 当時の測量技術が未熟であったこと

から面積や形状が必ずしも現地と整合しておらず、地域によっては脱落地、重複地等があるといった問題も生じていました。この地租改正で作成された図面が、いわゆる「公図」(地図に準ずる図面)の大部分を占めています。

地籍調査(ちせきちょうさ) (1951年(昭和26年)~)

第2次世界大戦により疲弊(ひへい)した日本を再建するためには、国土資源の高度利用が不可欠でした。しかし、その前提となる国土に関する基礎資料が整備されていなかったことから、まず、国土の実態を正確に把握することが強く求められました。現在の地籍調査は、このような背景の下で昭和26年に制定された「国土調査法」に基づいて行われています。
昭和32年からは、地籍調査の成果を用いて登記簿の情報の修正が行われるようになっています。

国土調査促進特別措置法と国土調査事業十箇年計画(1962年(昭和37年)~)

昭和26年から始められた地籍調査ですが、事業の進捗が十分ではありませんでした。このため、更なる調査の促進を図るため、昭和37年に国土調査促進特別措置法が議員立法により制定されました。そして、これに基づく「国土調査事業十箇年計画」により地籍調査が強力に推進されることとなりました。現在は令和2年5月に閣議決定された、第7次国土調査事業十箇年計画に基づき、地籍調査が実施されています。